新宿 諏訪神社について

ご由緒

当社の創建は、弘仁年中(西暦810~820)小野篁朝臣が、大国主命、事代主命を祭祀すと云われます。
当時当神社は、奥羽街道の一部松原街道に面しておりましたので、松原神社と称されておりました。 承和年中(西暦834~848)には、空海の弟
真雅僧正再営と伝えられます。 永承年中(西暦1046~1053)源頼義、義家父子が陸奥の国の阿倍氏反乱(前九年の役)鎮定の折、当社に祈願
せられ、凱陣の節には武器を納められました。

文治五年(西暦1189)の春、源頼朝公が藤原泰衡討伐の為、陸奥発向のみぎり、当社に祈願あり、凱陣の後に社殿を造営せられました。 この時頼
朝公は、頼義、義家父子を当社境内に白旗社として祀られました。 建長六年(西暦1254)北条時頼が、厳島神社を境内に祭祀しました。 この神社
は当神社の飛地に池と共に祀られておりましたが、現在は本社に合祀されております。

応仁三年(西暦1469)春、太田道灌が社殿を再営しましたが、北条早雲の為悉く焼失しました。

その後江戸時代初期に、尾張の徳川家の祖である徳川義直公が、信濃国の諏訪神を勧請し、当社に合祀せられ、現在の諏訪神社と改称致しました。
又人皇第百八代後水尾天皇が、当社に御神体を御寄附になりました。 寛永年中(西暦1624~1644)将軍徳川家光公が造営せられ、続いて家綱
公が当時当社近隣地域は鷹狩りの名所でありましたので手鷹を奉納され、 これより老鳥は代々当社へ奉納することになりました。 又これにちなみ、
鷹狩りの絵馬が数多く奉納されるようになり、今でも新宿区内随一多数の貴重な絵馬が神社に保存されております。

明和年中(西暦1764~1772)家治公が鷹狩りの節に参詣されて、当社の御祭神を御城庭へ遷祭の上意があり、 依って紅葉山(今の宮城内)、
吹上(浜離宮)両御庭へ遷祭致しました。 その後、営繕の儀は全て徳川家に於て奉仕せられました。天保六年(西暦1835)に社務所より出火し、
神庫、末社に至るまで、悉く焼失しました。

明治三年社殿もひどく破損しましたので、氏子一同が修復を致しました。

その後、社殿も大変老朽化し破損もはなはだしくなりましたので、明治百年の記念事業として神社の建造物全般にわたる新築計画がなされ、 昭和四十
九年に社務所新筋工事より着手し、翌年完成、続いて宮神輿庫が、奈良県唐招提寺の国宝の校倉を模して建て替えられました。 そして昭和五十二年に
いよいよ本殿御造営工事が始められ、三年を費やし、昭和五十五年に、荘厳にして華麗なる新社殿が落成致しました。

宮司 村岡賢治

ご祭神

武御名方命(たけみなかたのみこと)

大国主神の第二の息子であり、長野県にある諏訪大社のご祭神として祀られているところから 「お諏訪さま」と呼ばれています。武勇に富み、武神と
され、建御雷神との力くらべが後に日本の国技となる相撲の起源となったと伝えられています。
お諏訪さまは古来より、水神・風神信仰があるとともに、諏訪の地を開拓したとされ「何事にも勝ち道を切り拓いていく」御神徳をお持ちであり、試
合や試験、仕事等々、何事にも力強いご利益がある神さまとして信仰されています。

大国主命(おおくにぬしのみこと)

国造りの神、農業神、商業神、医療神などとして信仰され、また「大国」はダイコクとも読めることから、 七福神の「大黒さま」として知られ、豊穣、
財福のご利益があり、出雲大社のご祭神として祀られていることも知られています。

事代主命(ことしろぬしのみこと)

大国主神の第一の息子であり、七福神の「恵比寿さま」であることは有名です。
国譲り神話において釣りをしていたことから釣り好きとされ、海と関係が深く、漁業の神、 商売繁盛の神様としても信仰されています。

境内ご案内

塞神三柱の塔
(新宿区登録有形民俗文化財)

天和二年(1682)に造立された舟形の石塔で、中央に「塞神三柱」、その右側に「諏訪上下大明神」および「正八幡大菩薩」、また左側には「天(以下欠損のため不明)」および「稲荷大明神」と刻まれております。
また、その上方には右に月形、左に日形が彫られております。
塞神は、村の境や峠に祀られる、境界を守護する神とされ、石塔としては江戸時代に南関東地方を中心に盛んに造立されました。
諏訪神社の塞神塔は区内で唯一のもので、また、「塞神三柱」の文字が刻まれた例は少なく、大変貴重です。
(新宿区教育委員会掲示板より)

明治天皇射的砲術天覧所阯
(東京都指定史跡)

明治十五年、諏訪の森近衛射的場が神社前に出来ました時、明治天皇の行幸があり、旧民社では稀なる栄に預かりました。
その節、畏くも天皇より神酒、鴨を賜り、氏子の歓喜、感激は大変なものでした。 その後、御社殿の屋根には菊の御紋を付ける様になり、又射的場にみえらえる各宮殿下には、皆当社の社殿にて御休息遊ばされました。
只今社殿に掲げてある神号額も小松宮彰仁親王殿下の御真筆であります。昭和十八年には当天覧所阯は東京都より行幸史跡に指定されました。

庚申塔(こうしんとう)

庚申塔は、庚申塚ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のことです。 庚申塔の石形や彫られる神像、文字などはさまざまですが、申は干支で猿に例えられることから、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫り、 村の名前や庚申講員の氏名を記したものが多いです。 同様の理由で庚申の祭神が神道では猿田彦神とされ、猿田彦神が彫られることもあります。 庚申塔には街道沿いに置かれ、塔に道標を彫り付けられたものも多いです。

宮神輿庫

奈良県唐招提寺にある国宝の校倉を模して建てられました。
校倉造りといえば木造ですが、当宮神輿庫はコンクリートによる校倉造りであり大変珍しく貴重です。

神楽殿

神道の神事、儀式において、神さまに奉納するための歌や舞を行う場所です。
当社、夏の例大祭では里神楽が行われます。

手水舎(諏訪の霊泉)

当社の境内より湧き出る水は、眼病、諸病に霊験有りとして、多くの人々がお水取りにみえました。
現在の手水舎の水も何百年も湧き出ている霊水です。

御嶽神社

境内末社の一つである「御嶽さん」
ご祭神は、大物主命(オオモノヌシノミコト)、太玉命(フトタマノミコト)をおまつりしています。

稲荷神社

境内末社の一つである「お稲荷さん」
ご祭神は、受保ノ神(ウケモチノカミ)をおまつりしています。

諏訪の森(恋の森)

この諏訪神社一帯は平安時代を代表する歌人 在原業平にまつわる伝承があります。
在原業平が妻とこのあたりに立ち寄った際、道に迷い二人は離ればなれになってしまいます。
探してもお互いを見つけることができないまま夜になり、在原業平は妻への恋しい思いを「あすはかたここにうつしの宮居かな そのねぎ言をきくや神垣」(あしたはここに神がいて、願いを聞いてくれるだろうか)と歌にし詠んだそうです。
そうして夫婦は互いを心配し思いを募らせながら一夜を大木の下で過ごします。
その思いが神に通じたのか、夜明けを迎えると二人はすぐ側に寝ており、夜の暗い森では気づけなかったが実はお互い同じ杉の大木の下で一夜を過ごしており再会することができたというお話です。
そこからこのあたりの森は「恋の森」と呼ばれるようになりました。

諏訪神社(『江戸名所図会』より)